上座と下座のビジネスマナーQ&A
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富士宮大石寺日顕宗では、日寛上人の「三宝抄」の文 …

2012年01月12日 Q.質問
富士宮大石寺日顕宗では、日寛上人の「三宝抄」の文を悪用して「三宝一体」を強調し、「法主信仰」を正当化しようとする。たしかに「三宝抄」では、仏宝・法宝・僧宝の三宝が「内体」においては「体一」であり、「外相」においては「勝劣」がある、と述べられている。しかしながら、ここでの「三宝一体」「三宝勝劣」は、礼拝の対象として安置される三宝についての議論である。ゆえに、同抄の問題の箇所では、「法宝を以もつて中央に安置し仏及び僧を以て左右に安置する」「仏宝を右の上座に安置し僧宝を左の下座に安置し」云々と、三宝安置のあり方が長々と論じられている。当然、信仰対象となる「僧宝」とは、三宝一体尊の奉安形式から言っても、日興上人御一人である。 ところが、日顕宗は、「文底秘沈抄」の「今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが如し。清浄の法水断絶せしむることなし」との文を引き、歴代法主も「一器の水を一器に移す」のだから三宝一体の僧宝に含まれる、と強弁している。ならば、歴代法主が「三宝抄」に説く三宝一体の僧宝に含まれる、と本気で思うのなら、大石寺の宝前に、68人の法主の「御影」をずらりと並べて拝むべきではないか? 同じく法水写瓶の表現が使われていても、「三宝抄」では信仰対象として安置すべき僧宝が、「文底秘沈抄」では法義継承面での大石寺の正統性が、それぞれ論じられている。二つの議論は、次元の異なる話なのである。これをどう思いますか? 日蓮正宗外部改革派憂創同盟
2012年01月17日 A.回答
三宝抄には、「所謂僧宝は日興上人を首と為す、是れ則ち秘法伝授の御弟子なる故也。然に則吾が日興上人嫡々寫瓶の御弟子なる事分明也。故に末法下種の僧宝と仰ぐ也。」 とあります。 「僧宝は日興上人を首と為す。」とあるので、僧宝の筆頭は日興上人です。「嫡々寫瓶の御弟子」なので「末法下種の僧宝」だと言う理由だと述べられています。次に「爾来日目日道代々咸く是れ僧宝也。」 とあります。 日興上人以来日目上人・日道上人・代々の上人が残らずみな僧宝であると明確に書かれています。そして、その後さらに、「及び門流の大衆亦爾也云々。」とあるので、さらに言えば門下の僧侶全体(個々ではなく)も又そうであると、及びで分けてはあっても「大衆(だいしゅ)」つまり僧侶たちも僧宝に含まれる事が書かれています。 まあ、一般仏教概念とかけ離れた記述ではなさそうです。そこから転じて中国では僧伽のメンバーである個人を「僧侶」と呼ぶようになったわけだから国語辞典の範囲だと思います。 僧伽は個人と言うよりは教えを広める僧団全体で、リーダーを文字通り筆頭にして残りは包摂している形になっているのは自然のような気がします。 それから、「法水写瓶」と言うのは、器である瓶つまり個々の存在は違っても、功徳の水つまり悟りの内容は変らないと言う意味です。 法の内容は変化せず伝えられたと言う表現です。 文底秘沈抄には「而して後法を日目に付し、日目亦日道に付す、今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが如く清浄の法水断絶せしむること無し、蓮師の心月豈此こに移らざらんや、是の故に御心今は富山に住したもうなり。」とあります。 混じりけのない法水は途切れる事なく日寛上人の時代まで続き、大聖人の「心月」つまり「悟りの心」が乗り移らないと言う事がありえない、これが理由で宗祖の魂は大石寺にいらっしゃるとそう書いてあると思います。三宝の一つに歴代上人が含まれるとしても、自分の御影を造立して自分で礼拝する法主が居たらおかしいと思うでしょう? 「大聖人が本仏なら大聖人が何故在世に自身の御影を造立てしなかったのか?」と聞くようなものです。 日目上人以来の法主上人から見ても尊信の対象であり、教義上も別格である日興上人の御影しかないのはそのせいです。 さらに日興上人の御影でさえ、三宝の意義を別体で表すために祭られているのであって、単独で本尊とされることはありません。 まして肉身を持った当代の上人を本尊とするなどと言う事は考えられません。 極端な事を言うようですが、大石寺では袈裟衣を着て法務をなさっている時には合掌礼を取る事のが作法になっていても、法主が普段着のときには合掌はしない事になっています。 個人崇拝にならないように普段着の時まで合掌礼を強いたりしないようになっています。信仰の対象としての富士門流の本尊は漫荼羅正意と言うのが決まりです。 68体の御影は並べなくてもいいのは経本を見ても解ります。 三師供養の観念文には日目上人への報恩謝徳への後に、「南無日道上人・日行 上人等御歴代の御正師」とまとめて書かれていますが、「南無」がついています。 南無~を六十数人分書く代わりに省略されているのです。御影も同じですが、三宝別体形式の場合は、教義上日目上人の立場から見ての三宝が顕されています。 無我を教えるのが仏教なので、67人(大聖人は除く)の肉体を現す別々の御影で個を強調する必要はないです。 日興上人以来法水を受けている以上日興上人に僧宝として包摂されています。 富士門流では、宗祖大聖人と開山上人は仏界へ帰還されて、二度と業で出来た肉身を取って再誕される事はない事になっています。 末法の初めに一度だけ出現したきりで、今は仏として寂光土にそのまま残っているという解釈です。 ここが日目上人以下と完全に差別されています。 広義で言えば、在家、さらに言えば一切衆生全てが、僧にあたるけれど、一切衆生全て宝と言うのでは信仰にはならないです。いくら仏性があっても自分を本尊にしたのでは信仰にならないのと同じ理由です。
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